逃げればいいのに闘ってしまいました

もう四半世紀前、バブル期新卒採用3年目の会社員が、自分がいたベンチャー企業を相手に闘ってしまった話です。私の経験が、いままさに働き方に悩んでいる若者へのエールとなれば幸いです。

対立が目的ではないといっても、最初に対立を持ち込んだ人間が言っても信じられないよね

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1992年7月28日、労働委員会であっせんが行われました。


初めて会社と話し合いの場を持てた日でした。

 

その時の記録は残っていません。


憶えていることは、

お互いの主張が交わることがなかったということ。

 

会社側は社員会結成の動きを理由に団交を拒否し続けていました。


しかし、団体交渉は組合の持つ権利です。
そして、会社はその要求に応じることが義務づけられています。

 

それは、従業員の過半数の意見を代表していようがいまいが関係ありません。

他社のケースでは会社の弾圧を恐れて労組に入らなくても、
従業員がサイレントマジョリティとして支持していることもあります。

 

やがて、カンキョーでも労組がそうした存在になります。
でも、それはまた後のこと。

 

さて、労働組合だからこそ従業員の権利を守るために、
会社と対等に交渉ができる権利を持っているのです。

しかし、会社にはこちらの権利を認める気はありません。
というよりも、社長が労組を嫌っていたのでしょう。

 

これは想像にしかなりませんが、
労組に対して権利ばかり主張して会社を困らせる、
といったイメージを抱いていたのでしょう。
思い込みの激しい人でしたから。


最初から、対立する存在として認識をしていたのは社長ではないでしょうか。

労組の意図や説明も聞かずして、労組を一方的に弾圧したのは誰でしょうか。

非組合員を使って頭ごなしに言葉の暴力で組合員を攻撃したのは誰でしょうか。


それで「対立を望まない」といっても、ウソとしか思えません。

 

さてAメモです。

地労委あっせんの後に、会社幹部が集まってどうやら話し合いをしていたようです。

1992年7月28日
社長、田熊労務部長、渡辺総務部長、豊田常務
話し合いにならず、強気、社員会にこうぎ(会社が動かしている)
①組合の解散
②団交を受けてから解散
神田・山崎入れても良い(注:多分、社員会へ入れてもよいということ)
掲示する(加入者募集)
やめたか、やめないかハッキリいわない
8月4日~6にもう一度話し合い。
お盆前後に団交
全体の雰囲気として排除するしかない(馴れ合いになる)
2人に出ていってもらうしかない Goal
家族的にやっていた、今までと同じ形に戻したい
対立が目的ではない(会社派ではない)

「話し合いにならず」と切り捨てられても、
方会社側が、私たちの存在を否定し続ける限りは平行線です。


こちらは団交をしてくださいと言っているだけです。
会社と労組がテーブルを挟んで話し合うことがそんなに難しいことなのですか?
何度となく、そう問いかけたと思います。

 

「家族的にやっていた」なんて一度も感じたことありません。
社長は会社にほとんどいないし、従業員を大切にする様子もなかったです。


家族的というのなら、誕生日を祝うとか、記念日にお小遣いをあげるとか(笑)


社長のポケットマネーで、

なんらかの家族めいたことをしてもらった憶えはありません。

 

都合が悪くなってから、会社の結束を表す言葉が見つからないため、
社長は「家族的」なんて言葉を使ったのでしょう。


この頃になると、私は社長のことを「虚勢を張っている張りぼてのような人」
としか思わなくなっていました。

もっといえば、カンキョーの製品の性能や業績にはウソが多くて、
無理して良い製品、良い会社に見せていたことに嫌気がさしていました。

 

「2人に出ていってもらうしかない」やさしい言葉がけですね。
本当は無理しなくとも出ていきたかったです。


しかし、2人になったからには、自分たちの名誉を回復してもらわないと。


最後まで闘ったのは、私たちの人格を認めてもらいたいという一点だったのでしょう。

 

 

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